2013年8月8日木曜日

新渡戸稲造の「武士道」より学ぶべきこと


禅とは古代インド語のディヤーナのの本誤訳であり、小泉八雲の説明にあるように「言葉による表現の範囲を超えた思想の領域に、瞑想をもって自ら達しようとする人間の努力をいう」という意味である。
その方法は瞑想であり、その目的とするところは、私の理解するところによれば、(この宇宙の)すべての現象の底に存在する原理を確認し、それによって、自己を絶対的なるものと調和せしむることにある。
このように定義すれば、禅の教えは一宗一派の教義とどまらず(それ以上のものであって)、人間は誰でもこの絶対的なる物を認識できれば、
俗世間のあらゆる現象を解脱して「新しい天と新しい地」に目覚めることができるのである。」

Zen is the Japanese equivalent for the Dhyana, which "represents human effort to reach through meditation zones
of thought beyond the range of verbal expression." Its method is contemplation, and its purport, so far as I understand it,
to be convinced of a principle that underlies all phenomena, and , if it can, of the Absolute itself, and thus to put
oneself in harmony with this Absolute. Thus defined, the teaching was more than the dogma of a sect, and whoever attains
to the perception of the Absolute raises himself above mundane things and awakes"to a new Heaven and a new Earth."




知識と人生における知識の実践は同一視された。このようなソクラテス的な教義の最大の説明者は、(東洋においては)倦むことなく知行合一を唱えた中国の哲学者、王陽明である。
To know and to act are one and the same.

2011年7月10日日曜日

袴の目的

有段者となり、何気に身につけている袴。

なぜ、袴をはくか考えてみた。

・身なりを良く見せる。
着こなし方で、かっこよくも悪くもみえる。
着付けが重要なこと。
・たたみ方を学ぶ。
男と女ではたたみ方も変わる。

本来の効果
・合気道でとても重要となる足さばきや膝の動きを隠すこととなる。
見えない部分にからくりが隠されている。
・すり足の上達
すり足ができなければ、自分で自分の袴を踏むこととなる。
歩き方、足の使い方がどれだけ重要かということを示している。
身なりを良く見せ、重要な部分を見えなくすることで相手に想像を与え、
美しく見せることができる。
・体の変化をした時の袴のなびき方により、理にかなった体さばきをしているかどうかが
確認できる。
・中心を縛ることで、安定感がます。

2010年7月29日木曜日

Bokken keiko

Practice menu

3 different taino henka
 1.irimitenkan 180degree
 2.turn only body 180degree change like
   1+2=gyakuhanmi katatedori shihonage

 irimitenkan aiteno gyakugawahe 180degree
 and change behind the enemy

Bokken version
totally differnt from only taino henka version.

 

Yokomen strike

1.shiho nage version
 Using shinogi

2.kotegaeshi version
 Using shinogi

3.irimiotoshi version
 using two kodachi bokken and shinogi

4.iriminage version
 using
 
Questions
 1kyo,2kyo,3kyo version by bokken

2010年3月6日土曜日

神棚とお札について

神棚には3枚のお札(てんしょうこうたいじんぐう、うじがみ、もうひとつ)
があるように書いてあり、それを順番通り並べるようなことが書いてありました。

Australiaの道場では立地条件などにより、大きな神棚はおけないということで
コンパクトサイズの神棚を重行先生からいただいたのではないかと思っております。

神棚にもいろいろと種類があるということですか?ちなみにジムさんの道場の神棚の
お札には天照皇大神宮のみとなっておりました。
神棚にもフォーマル版とカジュアル版があるということでしょうか?

<回答>
神棚の件ですが、小さな神棚の場合は扉が一つでその扉の内側にお札を納めます。
その場合、お札は皇大神宮のお札が一番前で次に産土神のお札が来ますが、産土神はオーストラリアの土地の神で、お札はありません。
しかし、皇大神宮はこの世の全てを遍く照らす神ですから、当然オーストラリアの国常立神(くにのとこたちのかみ)とも通ずるのでオーストラリアの神のお札が無くても差し支えありません。
あと一つのお札は信仰する、またはお参りした神社のお札を納めますが、もちろん神棚に無くても差し支えはありません。皇大神宮のお札があればオーケーです。
若し良ければ私の奉仕している葛飾八幡宮のお札を智広君が来たときにお渡しいたします。

2010年1月24日日曜日

武産合気道の考えと同様の考えとして

砂泊先生の書かれた文献での主要なコメントを以下に抜粋。
素晴らしい文献である。合気道を学ぶ者には必要不可欠な考えである。

【参照文献】
Enlightenment through AIKIDO

有り難いという言葉に近い言葉とは・・・
・恐れ多い・畏れ多い
・畏くも
・忝い
・勿体無い


P116 「今、この一瞬」より

「有り難さとは」
大地震により、高層ビルの崩壊、交通網の寸断、物質文明の生活を謳歌した人々の生活は、瞬時にして原始の生活に一変したのである。
人の生活の根源である、食・衣・住は、それが困難になって時点で、人々は人と
しての冷静さを失い、我先にと食べ物に群がっていくのである。水が欲しい、温かい食べ物が欲しい、日増しに足りないものを求める声が大きくなってゆく。ふんだんにあったものが、瞬時に目の前からなくなったとき、人々はその物の有り難さを知るであろうか


In an instant, with the destruction of skyscrapers and crippling of expressways, the lives of many people existing at the height of modern material civilization were forced to return to a primitive state.
At such times when the basic essentials of life such as food,clothing, and shelter are in short supply or threatened, poeple often lose their human-like calm and without a thought for anything or anyone else swarm to the available sources of food and nourishment. Day by day,the voices of those in need of water and food become louder and louder. When something once readily available disappears in the blink of an eye, it is then that people come to discover its importance and come to know and experience gratitude.
However, at first there is usually no room for such feelings in our heart. Out of mere desperation and thinking of nothing else, we do everything and anything to search for these essentials. It is only after finally coming to acquire that which we were searching for that we feel a sensation of warmth in our heart and for the first time feel a sense of gratitude toward ande appreciation for what we have.


その事が大事なことである。今までは、本当に物を粗末にしていたなあと感じる心が、
自分の心に培われてゆくのである。その場にいても、それを感じないでいる人は、人の心を失った獣の心と同じに成り下がったものと言えるのではなかろうか。

Cultivating a heart that recognizes the value of things previously taken for granted is important. Just as there are people who come to understand this feeling through direct experience, there are many who come to understand it through images alone (television/media). Conversely, those who despite having been humanness and think no differently than a beast.


地球は、人類の犯した罪けがれを祓い清めるように、ヨーロッパ、アメリカ、南米などと、今世紀最大といわれる大洪水に見舞われているという。

This century has been witness to a great amount of flooding throughout areas in Europe, the United States, South America, etc., which has no doubt seved to cleanse and purify much of the harm done by mankind. It may even seem as if the Last
Judgment is upon us.Just why is it that a "Last Judgment" brought about by God has been prophesided? Ever since the birth of mankind, throughout time, people's hearts have become increasingly drawn in by evil, and the human race has proceeded to damage the body of God- the Earth.



P120 「イロハのイの字」より

善い心の現れとして出てくる言葉は、相手の心に善くひびき、悪い心の現れとして出てくる言葉は、相手の心にとげを刺すのである。言葉は言ってしまえば、それまでのつもりでいる場合が多いと思うのであるが、言葉と同時に、その言葉を表わす字が、鮮明に出てきて消えないものとするならば、人々は無闇に悪い言葉を口にすることはできないであろう。

Aの人がBの人に対して、馬鹿者といった場合、それが言葉だけなら、それを受けたBも、ある時間がたてば、忘れることもあるかもしれない。しかし、それが同時に字として現れた場合、それはいつまでも残ることであろう。それが怨念となって相手に帰っていくことは間違いない。

また、AがBに対して、あなたは、なんと素晴らしい人だ、私もあなたを見習いたい、と言われて、それが同時に字となって送られた場合、Bは、Aから送られたその言葉と字を、いつまでも忘れることなく、もっとしっかり頑張らねば励まされることであろう。

そのことを深く考えて、人々が善い言葉を多く発するようになると、人類の世界も乱れることなく、心の安らぎの世界になっていくことであろう。
これが言葉における霊肉一帯の至上境に至る道ではなかろうかと感じたのであった。

一善行は天国への階段を一段上り一悪行は地獄への階段を一段下る積み重ねて最高に達し、最低に達する。


P124 「修行とは」より

先日、NHKラジオで子供の詩の朗読があり、その中で一つだけ、強い印象を受けたものがあった。
それは五歳の女児のもので、大体の内容は次のようなものである。
「私の中には良い心と、悪い心が、二百ほどある。そして、いつも戦っている。悪い心が勝った時はお母さんにおこられる。けれども、下の方で良い心が、ごめんなさいと言っているのに、お母さんにはわからない。」

Yesterday, while listening to a broadcast on Japanese radio of a recital of poems written by children, I received a strong impression from one particular poem. It was written by a five-year-old child and here is a summary of it:"Inside me I have good hearts and bad hearts. There are about two hundred of them and they are always fighting. When my hearts win, my mother gets mad at me, but she doesn't know that inside me my good hearts are saying I'm sorry."

己の中にある善の心を強くするように、自らの心を瞬間に省み、善心が悪心を押さえて、善行が日常茶飯事になるように習慣付けること、これが修行の目的であると思うのである。

Therefore, returning to the concept of shugyo, I believe that the true goal of shugyo is to foster and strengthen the good heart inside each of us. This makes it habitual through instantaneous self-reflection to judge the good from the bad, to conquer our bad heart through our good heart, and to make the performance of benevolent acts a part of our daily lives.

今日食べられることは、今日活かされているということである。
The fact that we have food to eat today is proof that we are given life.


P136 上がったり下がったり

人には、それぞれの能力があり、個性があることを考えると、皆が同じ状態で進まなければならないと、決めることはできない。しかし、人類が目標とするところは一つでなければならない。それは、地球に真の平和な世界を造ることである。

その基礎になる心を、合氣道開祖植芝盛平翁は教えておられたのである。
「合氣とは愛なり、天地の心を以って我が心とし、万有愛護の大精神を以って自己の使命を間完遂すること」人生を歩む上において、その基礎となる心が、万有愛護の精神である。ゆれ動く心を安定される氣軸が、万有愛護の精神である。

あまりにも大きすぎる精神で、日常生活の中でこれをどう活かすか分からない、という声もあるようだが、そう難しく考えることはない。自分が生きていることを考えると、その元が分かる。空気があり、水があり、太陽の熱と光があり、大地があり、大地から繁茂する食物がある。これはすべて、与えられたものであって、自分のものは一つもない。
与えられているということは、生かされているということである。何かこの世に用があって生かされているのである、ということが分からねばならない。

開祖植芝盛平翁は「宇宙と一体になる業である」とも言っておられるのであるが、すべてを生かしている元が一つであれば、万物は一体であると言えるのである。そこには、共存共栄の世界があるべきである。世界の人類はなぜ、そこに目覚めないのであろうか。
自分の国さえ良ければよい。自分の民族さえ栄えればよい、という考えは、あまりにも小さく、時代おくれである。しかし、世界はまだそのような状態である。
合気道を行い、一人が一人へと、相手と一体になる心技を伝えようと業じているのである。「上がったり下がったり」する不安定な心を、万有愛護の精神で安定させて、一歩一歩地上天国への道を、上がっていかねばならない。


Each individual has his/her own particular personality traits and abilities, etc.; therefore not
everyone can walk the same path. However, the goal of humanity as a whole must be sigular and collective. This goal is none other than to create a world of true peace on the face of the Earth.
The foundation for the creation of this collective spirit was taught by the Founder and expressed in his words, "Aiki is love. It is the way that brings our hearts into oneness with the spirit of the universe, to complete our mission in life by instilling in us a spirit of love and reverence for all of nature."
It is this "spirit of love and reverence for all things" thatis the foundation and core component
needed to bring stability and tranquility to people's wavering hearts. Some may say that such board and lofty ideas are difficult to actively implement in our daily life, but it is not really that hard.
By simply contemplating our own existence, our origin is easily understood. The air, water, sun's light and heat, the earth, and all its plentiful nutrients are provided and bestowed upon us. Nothing is our own.
Through all of these gifts we are given life, and by realizing this we become aware that there has to be a purpose for our existence.

The Founder often spoke of "becoming one with the universe." If every living thing has the same origin, then all things are united and of the same body. Hence, the world should be one of mutual co-existence and mutual prosperity. Why is it that the human race has yet to collectively open its eyes to this?
The attitude of concern only for one's country and people is narrow and archaic, but Practice Aikido is working on a person-to-person basis to transmit and pass on technique that unifies one's spirit with one's partner.

Through this "spirit of love and reverence for all of nature," we attain inner peace and allowing us to move step by step along the path to building Heaven right here on Earth.


P140 元を忘れず
今、自分がここに居るのは両親がいたからである。両親はまた、それぞれの祖がいたからである。その祖を辿っていくと、人類の祖である神に帰一するのである。そのように考えると、その元が、万物を生み出した祖になると思うのである。今、自分がこの世に生きて、何かをなしていることは、自分をこの世に生んだ、その元になるものが、この世でお前はこれをやれという、使命が与えられていると考えるのである。

We are here today because of our parents. Our parents exist because of their parents. Coutinuing in this fashion to trace the root of our existence eventually leads us all back to a single orgin and source is the creator of all things. Seeing that we were born upon this Earth and are given life by this source, the conclusion can be drawn that there must be some purpose or mission for our existence here. Naturally, people are not born here on Earth by their own free will and under their own power.
Likewise, our parents too had no control over what kind of child they brought into this world.
If such things were possible, parents would create children to their own specifications,
and there would be little orno suffering in the world. It is God that decides what kind of child will be born.
Therefore, for humans to label a smartchild a good child and one of below-average inte4lligence a bad one is to disrespect God's work. No child is ever born into this world evil. So then, what is responsible for the spawning of evil in society? We must give thought to what is at fault in society today that brings this evil into existence.


自分が勝手にこの世に生まれてきたということは、あり得ないのである。また、親がこういう子を生もうと思って生まれてきたのでもない。親が思うような子供が簡単に生まれるなら、世の中に苦労はないのである。
頭が良い子が生まれようが、悪い子が生まれようが、それは神のなせる業と考えるべきである。その神のなせる業を、人間が、頭が良いから良い子だ、頭が悪いから悪い子だと極め付けるのは神を冒涜(ぼうどく)するものである。
生まれたての赤ん坊には悪人はいないのである。なぜ、悪が生じるかと考えると、今の人類の社会に、悪を生じさせる何かの原因があるからだと考えるべきである。

人にはそれぞれ与えられた能力があると思うのであるが、それを伸ばし育ててやることが教育と言えるであろう。

植物の中にも、勝手に伸び放題に伸びるのもあるし、手をかけても、なかなか育たないものがあるように、人にも、自力で伸びていくものもいるし、他の人が力を貸して、能力を引き出してやって伸びていくものもある。それを見極めて導いてやるのが、先に生まれた者の役目ではなかろうか。

Each person is blessed with differents capacities and abilities, but nurturing and developing these abilities is the role of parenting and education. In the plant kingdom, there exist plants that grow and develop on their own without limit and also those that, given lots of human care, fail to grow. The same holds true for people; there are those who develop wonderfully on their own, as well as people whose development comes about through the aid, power, and guidance of others. Hence, it is the duty of elders or those who come before to assess, give guidance, and lead the younger generation.


P144 生かされて
万物はいきるためにすべてのものを与えられている。それは、生かされていることである。生かされている命を、常に生命力を与えてくれている、その根元なる神に対して有り難いと手を合わせる心こそ、新しい世紀を造る根元力である。

All living things are receivers of the gift of life through the provision of life's essentials. Folding our hands together in thankfulness and prayer to God, the root of our existence and constant source of life, is the powerful basis for creating a new century.

※気づき
自分は神と相手の間に存在しているもの。宇宙と相手と一体になるということ。一つになるということは
自分の存在を消すようなイメージであること?(Tomo's idea)

本日、突然の雨から晴天に見舞われ、路上からたくさんの水蒸気が天に上がっていく姿を見ました。
まさに、天地の間に氣が存在する状態を視覚でとらえることができたわけです。それを自然のままに
感じた時に体全体から鳥肌が立つような感覚を覚えました。
毎日の禊業が合気道だけでなく、日常生活に生かされるよう努めていきたいと思った今日この頃である。


P156  強くなるための極意② The Meaning of Strength 2

「宇宙の心とは何か。これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみまでおよぶ偉大な愛である。」
「愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は破壊の武であって真の武ではない」
「武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない」
「真の武は、目に見えないものの強さである。これを正勝吾勝勝速日(まさかつあかつかちはやひ)
如何なる場合にも絶対不敗である。すなわち絶対不敗とは、絶対に何物とも争わぬことである。
勝つとは己の心の中の争う心にうちかつことである。己に与えられた使命を成し遂げることである。」

"What is the spirit of the universe? It is an all-encompassing love that extends in all directions, exists at all times-past,present, and future- and extends throughout every corner of the universe."

"Love knows no conflict and has no enemies. the spirit of the universe is a spirit that recognizes no enemies and enters not into conflict. One who acts in discord with the spirit of the universe cannot harmonize with it. One whose spirit is not in tune with the spirit of the universe cannot harmonize with the movements of the universe.
The budo of one who acts in discord with the movement of the universe is the budo of destruction and not true budo."

"A martial art in which there are conflict, winning ,and losing is not true budo."

"True dudo is masakatsu gakatsu katsuhayabi* and thus it can never be defeated. In other words, to be invincible is to never give any opposition or fight. To be victorious is to win over the conflict that resides within our own heart, defeating the urge to fight with others; and to carry out and accomplish one's God-given mission."


P176 自分に与えられたもの

自分を知る上に、先ず思うことは、自分を自覚するこの命は、与えられたものであるということである。
与えられた命を生かすために、すべてのものが与えられていることを考えるとき、何か目的があって、自分がこの地球に生をうけたのであることが、分からねばならない。
ただ、生きているだけであるならば、山野に住む家畜となんら変わらないのである。
地球に住む人類の目標は一つでなければならない。それは地球を平和な素晴らしい世界にすることである。
その目標に向かってそれぞれに与えられた能力を発揮すること、そこに自己の使命を完逐する目標があると思うのである。

その目標を知ることなく、勝手に生きてきたことによって、世界に争いがおこり利己欲望のために狂奔して、地球自然破壊という現状に至ったのである。
体的欲望が先行したとき、どのような結果になるか、いまの世界はそれを教えているのである。
身近な合気道の世界を見ても分かることである。体的な強さのみを求める技は、相手を倒すことのみに集中して闘争術に化してしまうのである。

同じ合気道から出発していたも、その目標が違うと、まったく別のものになっていくのである。
合氣道は愛であると創始者植芝盛平は教えているのである。


As a human being and member of the human race entrusted with the mission of protecting and guiding the Earth, reflect on yourself for a moment. What are you, really? Why were you born into this world and why are you here?

Knowing yourself is, first-and-foremost, being conscious that your life is a gift. Making the most of the life we are given entails being mindful that all things that sustain our existence are gifts bestowed upon us by God.
Looking at life from such a perspective, one realizes that there must be a purpose for the existence of each and every person on Earth. If one is simply living life for the sake of living, one is living no different than a beast in the wild. The human race must unite with a singular and common purpose. This purpose is to make the Earth into a truly wonderful and peaceful world.

It is my belief that this "completion of our mission in life" of which the Founder referred to is working toward this collective goal using all of the natural abilities bestowed upon us. Living life unconscious of our mission and acting selfishly with nothing but one's own needs in mind gives birth to conflict and war around the world.
Moreover, being selfishly absorbed in the pursuit of one's own wants and desires leads to environmental damage and destruction of the Earth. The present state of the world demonstrates what happens when material desires and an emphasis on things of a physical nature take precedence. One need not go any further than the Aikido world to see and understand this phenomenon and its consequences. When one pursues only physical strength,
outer form, and technique to down opponent, Aikido becomes nothing more than a fighting art. Despite coming from the same root, when the purpose of Aikido practice changes it comes something completely different. The Founder taught that "Aikido is love."

2009年4月12日日曜日

No1 Keiko which is Bokken and Jo

Bokken keiko
(Wooden sword)


中段の構え
・右の構え
 右足の親指は正面を向き、左足親指は正面に対して左90度方向を向く、
 自分の中心(おへそ)の向きは正面であり、木刀をもつ両手は柔らかく保つ。
 剣先の延長線は相対した相手の首元のあたりにあることが理想的である。

・木刀の握り方
 振り下ろす場合
 

 それ以外の場合
 卵を握るように木刀を柔らかく保つ。練習を重ねることで、木刀が体の一部となるような
 意識を保つとよい。


・練習方法
 距離間、高さ、相手の動きを取り入れた形の動き方をするようがよい。
 



合気杖
 現状では明らかではない。今後研究の対象となる。
 
杖での稽古
 杖での技とは神楽の舞である。



2009年2月20日金曜日

基本所作について【座り方立ち方・進み方退き方】

1.進み方退き方
両足を揃え 直立している姿勢より前進する場合 左足より踏み出します。また、元の
姿勢より、後退する場合 右足より下がります。
覚え方は、進左退右(しんさたいう)とおぼえます。左が上位で右が下位です。神道
作法も同じです。

※ちなみに弓道では左進右退ということで同様の動きをする。

2.座り方立ち方
両足を揃え 直立している姿勢より座る場合 左足を少しく退き左の膝を着き 右の
膝を左の膝頭に揃えて、両足のつま先を立てた起居の姿勢になり 両つま先を静か
に伸ばして座ります(正座の姿勢)。
立ち上がるときは まず静かに起居(つま先を立てる)の姿勢をとり 右足を少しく進め
右の膝から立ち上がり、左足を右足に揃えて直立の姿勢となります。
覚え方は、起右座左(きうざさ)とおぼえます。1でも述べましたが左が上位、右が下位
です。

※ちなみに弓道では左進右退ということで逆の動きをする。

日本古来の信仰が日本人のしきたりとなって現在でも生活の中にしっかりと根付いております。
昔から左が身分でも上位とされてきました。左大臣右大臣の官職も左が上位です。
左は日足り、日( 霊、火、陽)が満ち満ちている様子を顕しています。
武士は、左腰に大刀を提げたり差したりしました。大刀は武士の魂であり、尊いもので
あり、大切なものでした。
しかし武器でもあります。また武士の中には左利きの者もいたであろうに、大刀を右腰
に差す者はいません。
おそらく左に差さなければならない理由があったのではないかと思うのは私の考えす
ぎでしょうか?

左が犯してはならぬ 中央(中央は神の座する位置)の次の上位置と捉えれば、また
人間の体の中心は腹で一番要の場所であると捉えたのではないでしょうか。
次に大事な場所が左腰、その大事な場所に武士の魂ともいえる大刀を差すのは、
最も自然ではないかと思います。

その大事な魂を歩いて互いにぶつかり合わぬように左通行になったのも自然の成り
行きである、と思います。

因みに、武士の罪のひとつ切腹について、簡単に記しておきますが、切腹にも作法があり、また検使 役や介添人、介錯人などがいる。切腹を命ぜられた者は、作法通り、沐浴して身を清め、白装束に着替えて切腹場に着く。
末期の杯を飲み干し、検使役に一礼をして腹を切るのですが、これも作法に従い左わき腹より横一文 字に切り、次にみぞおちからへそ下にまっすぐに切り下ろす。
そして介錯人に目礼して合図を送り、それに答えて介錯人は首を斬り落とす。
これは武士にとって一番苦しい死に方でありますが、武士として最も勇猛で、忠誠心が整っていた者として名誉ある死とされました。

日本では人間は生まれながら神にして腹にもその人の霊がいると考えていたのだろうと思います。神道には一霊四魂説があります。人は四つの魂からなっている。これを詳しく説明すると長くなるのでいずれ、何かの機会にいたします。